どこかの町の、片隅に立つ、ラーメン屋。
諸事情から不定期営業になったものの、その味に惹かれて営業時にはいつもたくさんの客で賑わう。
公式サイトを持たず、各種レビューサイトへの登録もせず、フェイスブックもツイッターもラインもアカウントを持たない。また一切広告も打たない。
店主が店を開けられる日に、開店時間になったらひょっこりとのれんを出す。それだけが営業日の合図なのだが、近所の常連を中心に人が集まり、気が付いたら客が途切れなくなるという不思議な店である。
ある営業日も用意してあった分をほぼ提供し終わり、のれんをしまい、店じまいとなった。
掃除や後片付けもほぼ終わり、店には、店主である男がひとり。カウンターに座り、淡々とこの日の売り上げのまとめを進めていた。仕入れの伝票を転記し、オーダー票からこの日出たメニューを確認し、レジに入っている金額とレシートをチェックし、それらもまた出納帳に記載していき、電卓を叩いて収支を出す。
オーダー票を見ると、手伝ってくれた二人の性格の違いがよく分かって面白い。一人は上手い字ではないのだけれど分かりやすく記入し、もう一人は分かればいいと言わんばかりの書きなぐりっぷり。ふ、と思わず笑みが漏れた。二人とも店を手伝う義務も義理もないにも関わらず、開ける日には必ず時間の都合をつけて来て、何だかんだ言いながら手伝ってくれる。
「ありがたいことだよなあ」
しみじみと思った故のつぶやきが洩れた。
二人は今日も少し前までいたのだが、仕事上がりにやってきた彼らと親しくしている面々が連れて行った。
出会った当初は自分たち三人の間ですらギスギスしていたものだった(今が円満かと聞かれるとそうでもないかもしれない……が、それなりに対応の仕方を会得しても来たという自覚はある)が、いつしかやり取りする人が増えていっていて、知り合った当初の三人しかいなかった世界がどんどんと広がっていることを改めて実感する。
うん、今日もお客さんもよく来てもらった。手伝いもありがたかった。あいつらと仲良くしてくれる年の近い連中がいる。いいことだ。と、気分を良くしているところに、からからと音を立てて入口の戸が開き、ひょこりと若い女性が店内に現れた。
「こんばんは、お疲れ様ですー」
「師匠! お疲れさまっす! さ、どうぞどうぞ」
もう既に店は閉めたはずだが、彼は立ち上がり、来訪者をカウンターへ促した。慣れた様子で師匠と呼ばれた彼女も、彼があれこれ伝票や帳面を広げていた席の隣に腰掛け、そのまま鞄から自分の手帳を出して、ページを開いていく。
彼女のそんな様子を眺めながら、カウンターに置いてあったポットに入れておいた茶をコップに二人分注ぎ、彼女と自分の前に置いて座りなおす。先ほどまで付けていた出納帳を閉じ、自身も手帳を取り出して、ページを開く。
気が付けば、これが店を開けた日の閉店後のいつもの風景になっていた。
「で、次のお仕事なんですけど。明日の打ち合わせ、大丈夫ですか?」
「十四時からのですよね、問題ないっす。あと、終わってからレッスン入りたいんですけど大丈夫っすか?」
「はい。昨日連絡いただいたのでスタジオ押さえました。これは三人とも、でいいですか?」
「そうっすね。振りのチェックをちゃんとしておきたかったんで」
「了解です。いつものとこなんでお願いします。あとすみません、次の日なんですが……」
彼女が決定したことや連絡すべきことを伝え、彼がそれを控えていく。その内容は、彼の、『諸事情』。
彼と店を手伝っていた二人は、同じユニットを組んでいるアイドル。
そして店に来た彼女はプロデューサー。
店を続けるためにと履くことを決意した二足目のわらじは、一足目を不定期営業というやや不本意な形にせざるを得なかったものの、それでも着実に階段を上るように前に進んでいる。彼自身も知らなかった仕事の楽しさを実感してきている。自ら提案することも多くなってきた。いい傾向だとお互いが思っている。
連絡事項などのやり取りがひと段落ついたところで、ふう、と彼女が息をついたのに気が付いた。気を付けてみれば、顔色も少しよくない感じがする。
「……師匠? 今日ちょっとお疲れなんじゃ」
「んー、今日はちょっと接待入っちゃって。ちょっと飲まされました。でも! おかげで、すっごい仕事来そうですよ」
えへん、と胸を張り気味に答えているが、やはり。
「それは凄く有り難い。けど、師匠、それだけじゃないっすよね……昨夜、あまり寝てないんじゃないっすか?」
「……うう、その通りです。プレゼン作っててあまり眠ってないです」
「あんまり無理しないように。仕事はもちろん大事だけど、師匠がそれで倒れたら、身も蓋もない」
「面目ないです」
体が資本な元アスリートだった彼のことばは、ずしりと響く。素直に頭を下げるしかない。
「よく食べてよく寝ないと――そうだ、師匠。ちょっと付き合ってもらっていいっすか?」
彼は、に、と笑ってカウンターの中、キッチンに入る。はい、と返答が帰るより早くもう調理を始めていた。数刻ののち、隣に戻った彼が手にしていたのは、ラーメン鉢。ことりと音を立てて彼女の前に差し出す。
「これって」
「疲れた胃にも優しいラーメンを今考えてて。試作品の味見、頼んでいいっすか?」
ふわり、と優しい香りを纏った湯気が昇る。こくりと頷いて箸を取り、口に運ぶ。
口当たりがいい。するりと入っていく。本人が言った通りスープから具材から全て『優しい』。
「――おいしい! これすぐにでもお店に出せるんじゃないでしょうか」
率直な感想が聞こえ、よっしゃとガッツポーズ。
「まだまだ課題はあると思うけど、師匠にそう言ってもらえて嬉しいっす!」
「これ、本当においしいです。おいしいし、凄く……なんて言ったらいいのかな、こう、優しい味、というか」
聞きたかったことばが帰ってきた彼は破顔一笑する。
「……でも、あの。わざわざ用意してくれてたんですか?」
「それは、秘密っす」
し、と唇に人差し指を宛て、もう片方の手で彼女の頭にぽん、と手を置き、ぽんぽんと上下させ、くしゃりと撫でる。
「師匠は、一人しか、いないんだから。ちゃんと体に気を付けてもらわないと」
置かれた手のひらから。丁寧に紡がれたことばから。
彼の温かさが伝わるような。
そんな気がした。
「はい、ありがとうございます。気を付けます」
笑みを載せ、精一杯のことばで返す。これで、彼の気持ちに自分は返せているだろうか。そうだといい。そうであってほしい。
ぬくもりの余韻を噛みしめながら、そんなことを彼女は思った。
「さって、師匠。片付けたら送ります。ちょっと待っててください」
調理器具や食べ終わった食器を洗いながら彼が声を掛ける。
「大丈夫ですよ、一人で帰れます」
時計を見ながら、まだこの時間なら大丈夫だろうと返事を返したものの、
「よくない。今何時だと思ってるんすか。ましてや、飲まされたのあまり寝てないのって言ってた女の子を夜一人で歩かせられる訳がない」
あっさり切り捨てられた。恐らく、了解するまで彼は一歩も引かないだろう。伺い見た表情からその意思が伝わってくる。ここは折れるしかない。
「……分かりました。よろしくお願いします」
「りょーかい。もうすぐ終わるんで」
満足げに頷く彼を見ながら、自身も片付けを始めた。
「本当に、ありがとうございます、道流さん」
小さな声で、こっそりと唇に乗せた。感謝の気持ちはもちろんあるけれど、面と向かって言うには面映ゆく感じたのだ。だから、こっそりと。
「どういたしまして」
「え、聞こえて」
慌てる彼女に、当然、と言わんばかりに余裕ありげに笑って見せた。
ぬくもりの余韻
道流さんが書いてみたくてこしょっとアンソロに寄稿したテキストです。pixivなどにも載せさせても貰ってます。
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