リズヴァーン氏のささやかな葛藤

 うとうととうたた寝を始めた彼女を起こさぬよう、気をつけてそろりと彼は部屋から出た。
「リズ先生。望美の具合はどうでした?」
 望美の対にあたる存在、黒龍の神子の朔が呼び止める。熱を出して床に着いた親友のため、今日は一日こちら、日ごろ彼らが世話をかけている有川邸の隣にある望美の自宅にて、彼女の看病を引き受けていた。
「まだ熱が残ってはいるが大事無い。明日には起きられるだろう」
「そうですか。よかった。安心しました」

 さて、神子と交わした約束を果たさねばなるまい。リズヴァーンは朔に尋ねることにする。
「神子に粥を持っていこうと思うのだが、この屋敷で煮炊きが出来る場所はあるだろうか」
「ええ、ここの下の階が台所になりますが。お粥なら言ってくださればわたしが」
 こちらへ来てからも彼女は有川邸にて譲と共に皆の食事を世話してきていた。『きっちん』の使い方にも慣れてきたのよ、とそういえば昨夜の食事の折に話していたのを思い出す。普通に考えれば彼女に頼むのがむしろ良い選択であったといえよう。が、ここは、神子に自分が作ると約した以上、それを違えてはならない。彼女の申し出をやんわりと右手で制して拒否の意を伝える。
「いや、私が作って持っていくと神子と約した故に、な」
「そうですね。先生がお作りになられたお粥ならあの子の風邪もあっという間に飛んでいってしまうでしょうし」
 全てを察した彼女がふふ、と笑う。

「それでは先生、下へ降りましょう。キッチンは自由に使ってもらって構わないと望美のおかあさまから言われております。道具の使い方などで分からないことがありましたら隣のリビングにおりますので聞いてください」
 神子の母親は用があるそうで外出している。夕刻までは戻らないそうだ。床に着いている彼女を置いていくのは少し心配だと言っていたのだが、朔(いつの間にか彼女は『望美の親友』として春日家に知られており、こちらの世界に滞在している間にも幾度か足を運んでいた)が、一日こちらにおり母親の変わりに看病すると申し出、それなら申し訳ないけどお願いね、と出かけていったのだ。慣れた調子で階段を降り、リビングに続くキッチンに足を運んだ。有川邸のそれよりはいささか手狭ではあったが、綺麗に掃除され整えられていた。金属でこしらえられていた流し場がきらりと光っていた。
「えーと、お米は……あ、ありました先生。それからお水はここから出ます。お鍋はこれを使ってもらっていいとおもいます。あとお野菜や卵などは後ろにある冷蔵庫に入っていますから出していただいて構わないと思います。それから煮炊きですけど……あら、これは……」
 順番に説明をしていた彼女の動きがそこでぴたりと止まった。煮炊きは『ガスコンロ』でやっていることをもう既に彼は知っていた。有川邸では既に一度二度湯を沸かしたりしたこともあったので使い方は既に会得していた。なのでさして困ることでもないのだが、何故か朔はコンロの前で考え込んでいた。
「ガスコンロがどうかしたのか」
「ええ、先生。ここのコンロは私が使ったことのあるものとは違う使い方をするようなので、使い方が…」
「どれ」
 思案する朔の視線の先にあるものを彼も見る。確かに、これは、有川邸のそれとは違う様式であるのが分かった。何しろ、火がどこから出るのか全く分からない。まっ平ら。どこにも出っ張りがないので鍋をどうやってかけるのかすら分からない。スイッチと呼ばれる点火装置も何やら書いてある文句が違っている。顎に手を当て思案する朔の隣で彼も腕を組んで考える。

 事態を簡単に説明してしまうと、春日家は『オール電化の家』であった。
 新しいもの好きの彼女の両親が真っ先にガスコンロをIHクッキングヒーターに入れ替えたのを初めに家中のいろいろを電力会社推奨のいろいろにとりかえてしまっていたということである。
 有川家のガスコンロにそれなりに慣れてきた二人であったが、さらに異なるものを目の当たりにしてしまった。
 侮りがたし、神子の世界。

「先生…もしよければ、譲殿を呼んで参りましょうか? 彼ならこの種類のものも使えると思うのですが」
 延々と考えていても仕方がない。この状況を打破する恐らくは最善の方法が朔から提案された。確かに、彼女の言うとおり、譲なり将臣を呼び、彼らの教えを求めるのが妥当であろうと思われる。日ごろの彼ならそれに同意したかもしれない。
 けれども、今回は、己自身が、神子に、粥を作って持っていこう、卵も忘れずに入れておこうと約した以上、人の手を借りてしまうのは違うのではないかと考えてしまう。
「いや、それには及ばない。恐らくここで火を点けるのであろう」
 正面のタッチパネルのそれらしきボタンを押してみる。が。当たり前と言えば当たり前なのだが、火は点かない。
「譲殿で都合が悪いようでしたら将臣殿でも…」
 あまり意味はないと分かりつつ朔は言わずにいられなかった。
「いや、薪を集めよう。庭でかまどを作れば」
「先生。それをやると恐らく『しょうぼうしょ』や『けいさつ』というところから人が飛んで来て大変なことになるそうです。この間九郎殿が将臣殿にそう言われているのを聞きました…そもそも、こちらの世界ではあまり薪になるような枝も落ちてないと思います」
 何の折だったかは記憶してないが、テレビを見ながら九郎が何気に言った外で煮炊きをすればいいではないかと言う台詞に将臣がこんこんと下手にこっちでそれをやると火付けと間違われて大騒ぎになるから勘弁してくれ、と説明していたのを覚えていた。彼女の言葉にむむ、と考え込み出したリズヴァーンを見て、日ごろは冷静で常に望美や九郎に教え諭す彼の見てはいけない面をみてしまっただろうかと思った。
「……確かに、誰かに聞くのが…いやしかし…」
 このまま放っておいてもおそらく彼は延々と思考の迷宮から抜け出せないであろうことは明白だ。彼女は最後の一石を投じることにした。
「分かりました先生。譲殿に電話をかけて聞きましょう。使い方さえ聞いてしまえば後は大丈夫だと思います。電話で聞くだけなら、譲殿に世話をかけることもあまりありません。大丈夫です」

 持つべきものは、発想の転換か、開き直りか。
 その後、春日家の電話の使い方に苦戦したのも、外出していた譲を携帯電話に電話をかけようやく掴まえてクッキングヒーターの使い方を繰り返し延々と説明させたのも、リズ先生のめったに見せない顔を見たことでご破算にしておきましょう、と後に朔は望美に語ったのだった。