旋律の距離

 のどかな昼休み。
 王崎に依頼され急遽結成することとなったアンサンブルは、どうにかこうにかメンバーも揃い、おぼつかないながらもそろそろ形を成しつつあったころ。

 香穂子はアンサンブルを引き受けてくれた転校生の加地に曲の解釈について尋ねられ、それならゆっくり話そうかと二人でカフェテリアへ足を運ぶこととした。
 昼食を求める多くの生徒達で賑わう中、空いている席を探そうと、きょろきょろと辺りを見回していたところ、
「日野ちゃん、こっち空いてるよー」
 と、どこかから彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。
 声の方向へ向き直ると、音楽科に所属する同学年の友人である森真奈美がその隣のテーブルを差して手招きしているのが見えた。有難くそれに従い座席を確保することにした。
「森さん、ありがとー」
「ううん。いいってことよー。きょろきょろしてた日野ちゃんが見えたから、ここは元伴奏者としてはほっとけないよねってことで」
「その節も今回も大変お世話になりまして。あれ、一人なの?」
「いえいえ、お互い様ってことで。ううん、友達待ち。購買に買い物に行ってるんだけど、今日も混んでるのかな」
「確かに、この時間の購買は地獄を見るよね」
 互いに目を見合わせてふふ、と笑う。『オンガクカもフツウカも関係なく音を楽しんで欲しいのだ』と口癖のように言っていたリリの願いは確実に一つ実を結び、文字通り音を楽しんでいるふたりは、コンクールが終わった今もそれがきっかけで交流が続いている。

「ああ、そうだ、日野ちゃん、今度教会のバザーのコンサートに出るんだって?」
「うん、そうなの。あ、そうだ、彼。今度一緒にそのコンサートに出てくれるんだ。転校生の加地葵くん。加地くん、こっちは音楽科の森さん。コンクールの時にずっと伴奏を引き受けてくれたの」
 香穂子に紹介され互いに会釈と挨拶を交わす。
「ああ、彼がウワサの普通科の転校生くんかあ。森真奈美です。よろしくね」
「『ウワサの転校生』の加地葵です。僕のこと、もうウワサになってたりしてるんだ?」
「うん。というかわたしは加地くんが転校してきたその日に天羽ちゃんからメールで速報が飛んできて知ったんだけど」
「天羽さんとも仲いいの?」
「ん。コンクールの取材とかでやり取りしてるうちにね。でも、音楽科でちらほらウワサになってるのはホント。音楽科は転校生ってたまにいたりするんだけど、普通科でなおかつ年度の途中で、ってのはかなり珍しいんじゃない?」
「まあ、そうだよね」

 と、初対面同士のありがちな会話を聞いていた香穂子が、あれそういえば、と手持ちのファイルをがさがさと確認しだした。その直後、彼女から『あ、まず』という小声の呟きが漏れた。
「ごめん、加地くん、わたし楽譜忘れて来たからちょっと取ってくるね」
「え、いいよ、日野さん。僕の楽譜見て話したらいいことだし」
「ううん、メモとか書き込んだりしたいし。ちょっと待ってて」

 止める間もなく、小走りで香穂子はドアの向こうに消えていった。

「さすが『疾風の日野』ちゃん。速攻だねえ」
 妙に森が納得したように頷いていた。
「『疾風の日野』? 彼女そんなに足速いの?」
「違う違う。コンクール中、日野ちゃんっていつも校内を走り回ってたのよ。何故かは教えてくれなかったから私も知らないんだけど。それでついたあだ名が『疾風の日野』」
 …コンクール中、必要に駆られ学院のあちこちにいるファータを探し、駆け回り続けた彼女は、いろいろな意味で学院中に伝説とも言える逸話を残していた。このあだ名もその一つ。
「そうなんだ。今度日野さんに聞いてみようかな……あ、そうだ、森さんって、日野さんの伴奏やってたんだよね?」
 それで、という訳でもないだろうが、加地の関心は一学期中に行われた学内コンクールに向いたらしく、別の質問が飛び出した。
「うん、コンクールの間ね」
「きっかけは? どうやって知り合ったの?」
「金澤先生に頼まれたの。普通科のヴァイオリンの子の伴奏やってくれって」
 森にしてみれば、何気なく聞かれた友人についての質問に何気なく答えた、つもりだった。が、これが火に油を注いだらしく、
「ねえ、じゃあ、日野さんの第一印象ってどんなだった?  練習ってどんな感じでやってたの? 曲は何やったの? 衣装は? …ってこれはこの間天羽さんから写真譲ってもらったんだったっけ。日野さん、凄く綺麗だったよね、どの衣装も似合ってて。見たかったなあ。そういえば、あの写真、森さんも写ってたね。それから…」
 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
「ちょっと待って。……加地くん。ねえ、わたし、それに全部答えなきゃならないの?」
 正に飛んでくるという形容が当てはまる勢いにいささか面食らった森が右手で加地を制した。学内コンクール関係者ではあるが、日野香穂子データベースまでは担当していないぞ、と。
 日野ちゃん狙いらしいのはよーく、分かったけど。

「ううん、答えなくてもいい」
 けろっと帰ってきたのが予想外の反応で。いささか面食らった。
「でも、知りたい。凄く。だって、伴奏者って誰よりも一番奏者に近いでしょ。誰よりも誰よりも一番日野さんの音を感じることが出来るんだよ」
 が、その直後、あっさりとその反応は熱を帯びた希望で塗り替えられた。

 誰よりも近い。
 ……確かに、そう。

 わたしは彼女の奏でるヴァイオリンの旋律を誰よりも間近で聴いて、それを捉えて、ピアノを添えて、その音を最大限響かせることが出来た。
 コンクール中、どんどんその表現力は上がっていって、一体彼女はどこまで高みに向かうのかと感嘆した。一時期、スランプだったのかがくりと落ちた頃があって、励ましつつ心配したものだったが、徐々に回復していき、それ以前を更に越える演奏を聞かせてくれた。

「そうね、確かにね」
 コンクール中のいろいろな出来事を思い出し、頷いた。

「いいなあ。羨ましい。どう足掻いても時間は戻せない、過去には戻れない。僕には永遠にそれを実感する手立てがない……でもね、色んな角度から見たり聞いたりすることで、補うことが出来るかなって思う。だから機会があれば色んな人に聞くよ。……『コンクールのときの日野さんってどうだった?』って」
「……すっごいなあ。流石『ファン第一号』。あんまり熱く語るから驚いちゃった」
「あれ、それも知ってるんだ?」
「『早耳の天羽』ネットワークがありますから」
「なるほどね。あ、その二つ名もはじめて聞いた」
「今度は何で? って聞かないのね。加地くん、分かり安すぎ」
「ふふ、確かにそうかも。僕、日野さん以外は目に入ってないし、入れないし」

 凄いなあ。単純にそう思う。これだけまっすぐなファンとやらは最近お目にかかったことがない。

「んじゃその熱さに免じて一つ情報提供。コンクールの時に録音した音源と映像は資料として図書室に収められてるの知ってる?」
「あ、やっぱりあるの? この間行ってみたんだけど、ちょっと見つけられなくて」
「貸し出し中なのかもね。司書さんに聞いてみてもいいし、予約入れておくといいんじゃない? マスターは放送部が持ってるから、申し出たら見せてくれるかもしれないし」
「ありがと。時間あったら行ってみる。流石にコンサート終わるまではアンサンブルに集中したいし」
「アンサンブルに参加してるのって、やっぱり?」
 まあ、聞かなくても分かる質問ではあるが、ふいに聞いてみたくなった。

「そりゃあもう。日野さんが困ってるなら僕は何でもやっちゃう」

 そんなことを言ってる間に、お待たせ、と香穂子が席に戻ってきた。

「ごめんね待たせちゃって。あれ、二人とも何話してたの?」
「ん、日野ちゃんの話をいろいろと」
「そうそう、第二セレクションで控え室のドアに鼻をぶつけた話とか」
「やだ、何それ。そんなことあったっけ?」

 後に加地が、日野香穂子のコンクール中に纏わる様々な逸話を耳にすることが出来たかどうかは定かではないが、彼ならあっさり聞きだしているだろうなあと、この後アンサンブルに協力することになった森は思うのだった。