after words[02:Violet]
風が、吹いている。
タラップから一歩、地面に足を下ろす。すう、と息を吸って吐き出す。
故郷なんて意識はこれっぽっちもなかったはずなのに。
「帰ってきた」と思ってしまうのは、やはり、帰りたいと思う場所が出来たからか。彼はそんなことを考える。
「……つーかさ。オレ、確かに到着時間連絡したよなあ」
きょろきょろと辺りを見回す。一緒に艦を下りた他のクルーは既にもうあちこちに散っていて、そこに残ったのは彼一人。
「昨日メールしたときには、『迎えに行きますね！ 早く会いたいです』とか可愛らしいこと言ってたくせにさー」
丘の上と海の上。
というか。
地球と宇宙。
同じ空を見ることもできない、同じ空気を吸うこともできない遠い距離。
そうすることを選んだのは自分たちだけど、それでも。会えるものなら会いたいし話したいし触れたいしそれから。そう考え出してしまうと歯止めが利かなくなるんじゃないかと思ってしまう自分がいる。はー、と長い溜息を吐き出す。
「あー、もー、どうっすっかなあ」
移動するのは何ら問題ないだろう。携帯でいくらでも連絡は取れる。こちらへ向かってるなら適当な場所で落ち合う段取りも付けられるだろうし。そう考える反面、どこかですれ違いでもしたら、と思うとそれも困ると思案する。何しろ待ち合わせ相手は筋金入りの方向音痴だ。エリュシオン乗艦し始めの頃の迷子になりましたコールの回数を思い出して頭を抱える。どうしろってんだ、もう。
参ったなあと呟きつつがつがつと地面を蹴ってみる。そうしてどうなるわけでもないが、そうでもしてないと落ち着かない。全然効果ないけど。母なる地球の大地はそれくらい暖かくスルーしてくれるに違いない。
……？
呼ばれた？ ……気のせい？
んなわけ、あっか。ありえねえっての。
かなり遠くの方から彼を呼ぶ声が聞こえた。気のせいじゃないかと言われそうなくらい。それをざっくりと否定する。このオレが聞き間違えるなんて、ありえねえし、と。
「ヴィオレさーーーーーん」
どんどんその声は明瞭になってくる。姿も見える。手を振ってこちらへ向かって走ってくる。って、待て、足元ぜんっぜん見てねえだろ。あ、そこは、と言おうとしたら案の定躓いてすっ転んだ。が、軽く膝と腕の土を払ってそのまま彼の目の前までやってきた。ぜえは息を切らせながら、それでも、こっちを真っ直ぐ見る。
「……おかえりなさい。ヴィオレさん」
「おいおい、大丈夫か？ 随分派手に転んでたじゃないか。怪我とかは」
「平気です。全然大丈夫です」
息つく間もなく、どん、と音でも出そうな勢いで抱きつかれる。
「……だって、すっごく、会いたかったんです」
きゅ、と背中に回った手に力が入る。
「だから、今日は絶対オフにしてくださいってお願いしてて。それでいいよってことになってたんですけど、お迎えに出る30分前にどうしても見てほしいって言う書類が飛びこんできちゃって。それで、大急ぎで確認とかしてたんですけど、ちょっとどうしてもスルーできないような修正箇所とか見つけちゃって。それを直してもらってたんですけど、でもなかなか終わらなくって、それで出るの予定より遅れちゃって。すっごく大急ぎで向かったんですけど、もう皆さん艦を下りられてて、ああどうしようってもう凄く焦っちゃって。それでも出来るだけ早く来たかったからもう足遅いんですけど走らなきゃって思って。でも転んじゃって。それで…」
「ああ、分かった。とりあえず分かったから。藍澄ちゃん、ちょっとストップ」
背中に手を回し、ぎゅ、と抱きしめる。そのまま、とんとん、と背中を叩く。
「オレも。会いたかった。迎え、サンキュ」
言い聞かせるように、ゆっくり。言葉に精一杯の気持ちを乗せる。会いたかった。ずっと。毎日のようにメールを送った。帰ってきた返事を何度も読み返した。映像がついてた時はそれを何度も見返した。眠れない夜は、航海の日程を数え上げて、あと何日だと指を折った。その数字が減るのが純粋にうれしいと思った。
ふわり、と風が舞いこみ、下ろしていた藍澄の髪が彼の頬をくすぐる。そのままその髪を指で掬う。そのつややかな感触を確認し、口元へ。髪を解放させて額に唇を寄せる。額から頬へ。頬から耳元へ。ゆるゆると口づけを降らせていく。
「え、ヴィオレさん。ここ、外です」
「ん？ まあでも、やっと会えたし」
「そっ、それはそうなんですけど、でも、外で、人の目とか。あの」
精一杯抗議の声を挙げてみたものの、それは何ら効果を発揮しておらず。むしろ背中に回ってるもう片方の手に離さないとばかりに力が入ってる。
「構やしねえよ。艦のクルーはもう残っちゃいねえし。人の目なんてないに等しい。気になるなら、目を閉じてればいい」
そのまま、瞼に口づける。右目から左目へ。見えるのなら封じてしまえばいい。
「それに、ほら、日本だとこういうのって『馬に蹴られて死んじま』うんじゃなかった？」
「確かにそうやって言いますけど、でもそれとこれとは話が」
「だいじょぶだいじょぶ。誰も見てない」
そろそろこの可愛らしい唇も塞いじまおう。
「や、でも、あの」
それでも抵抗を続けてる。そのいっぱいいっぱいなのも可愛くて仕方ない。そんなことを思っていた、その瞬間。
がごん。
「いっつまでいちゃこらやってんだこのタコ！」
甘ったるい空気を引き裂くかの様に脳天に衝撃が振り下ろされた。何、何なんだよもう！ けど、この声とこの鉄拳にはとても覚えがある。
「おやっさん、何でこっちまで来てんですか……ひでーっすよ」
頭をさすりながら、鉄拳の持ち主にささやかではあるが抗議の声をあげた。
「……ずっと言えなかったんですが、ボリスさんと途中でお会いして、歩いていらっしゃるって」
申し訳なさげに腕の中の彼女が呟いた。うん。それ、もう、十分すぎるくらい分かった。
「ひどいのはどっちだ。今回のお前の任務が何だったか忘れたとは言わせねえぞ」
「へいへい、覚えてます。新型SGの本格投入に備えてプロトタイプの実戦でのデータ取り及びそのメンテナンス、っす。ちゃんとデイリーで報告は送ってたじゃないっすか」
そう、MIHI製のSGのマイナーチェンジに伴い、実戦に即したデータが欲しいとボリスにお呼びがかかったのが今回の航海の顛末だ。ただ、ボリス自身は別口で進行中の案件を抱えており動きがとれず、お前もそろそろメカニックとして一人前に仕事やってこいとかなんとか言われながら戦艦メカニッククルー兼、MIHIの開発チーム代表、というような立場で乗艦したのだった。
「おう、それにしてはお前にしちゃあ上出来だった。で、そのまとめと現時点での分析データはどうしたよ？」
「あいよ、出来てますって、これっす」
ポケットからデータの入った端末ごと渡す。
「おう、見せろ……ふむ、めっずらしい。お前にしちゃあちゃんと仕事らしい仕事になってるじゃねえか」
「そりゃあもう、オレは出来のいい弟子っすから」
「バカモン。……おう、ここのデータ、詳細出せるか」
「あ、それっすね。そっち側に突っ込んであります」
そのまま裏っ側の画面を引っ張り出す。
「よし、まあ、いいだろ。これは引き取ってくわ」
「あ、了解っす」
端末の電源が落とされ、それはそのままボリスのポケットに収まった。
「で、だ。詳細を口頭で改めてヒアリングするんだが」
じー、とヴィオレと藍澄を交互に眺めて。
「明日1300、ラボ集合。いいな」
「りょーかい。っておやっさん、ひとさんまるまるって」
随分ゆっくりじゃないっすか。と言おうとしたところへ。
「俺だって馬になんざ蹴られたくねえんだよ。んじゃ、『艦長さん』あと任せた」
「はい、任されます。艦長じゃないですけど」
「ははは。まあいいじゃねえか。んじゃな」
俺の背中をばん、と叩いて、おやっさんは立ち去って行った。なんちゅーか、親心ってこんなんなんだろうかとか少しだけ思ったりもした。
「えーと、じゃあ、続き？」
背中に回したまま放してなかった藍澄を再びぎゅうと抱き込んでみる。
「だから、ここ外じゃないですか」
「なに、中ならいいの？」
「そ、そういう意味じゃないですけど……まあ、えっと。一杯お話したいことがあるんです。とにかく行きませんか？」
「ん。そうだな」
どうせなら、人目なんて気にしないでいいところまで移動したい。
「けど、その前に」
さっき出来なかったもんなーと呟きながら、わざと音を立てて、掠めるようなキスをひとつ。
「――だから、ここ外ですってば」
「うん、続きは、後でゆっくり、だよな？」
もう、と言いながらも顔は笑っていた。
「そうですよ。後で、です。行きましょう。今日いろいろ食材買ってきたんです。お野菜がすっごく安くて新鮮だったんです！ 何か作って食べましょ」
「おう、すっげ楽しみ」
一緒に歩いて、部屋まで帰ろう。
「な、藍澄ちゃん？」
「何ですか？」
「一緒に暮したら、毎日、こんなんかな」
「そうかもしれませんね」
二人で目を合わせて、笑った。